先日、小田急トラベルさんがやっている「小田急まなたび」という、小田急沿線で“学び”のある旅を楽しもうという企画シリーズの日帰りツアーに参加してきました。
【名物ガイド志村さんと行くお散歩ツアー「伊勢原“比々多”の魅力発見」[正式参拝、文化財巡り、伊勢原素材のご昼食、吉川醸造の特別見学など]】というものでして。(詳しくはリンク先の下の方に載っています)
神奈川県伊勢原市の比々多神社と、吉川醸造に行きたくて参加したのですが、ツアーの中でいくつかの古墳を巡りまして。その古墳が占い師的に非常に面白かったので、今日はその話をします。
古墳って、日本全国わりとどこにでもある
意外に古墳って奈良だけじゃなくて、日本全国にあったりするんですよね。神奈川県にもけっこうたくさんあって。この日のまち歩きツアーでは3カ所の古墳を訪ねました。
やっぱり関西の方が古墳の規模は大きめで、関東の古墳は小さめです。でも、こう……お山がこんもりしていて、見た目がカワイイ気がします(笑)(※上の写真)
関西の古墳は、こうドーン!って感じですね。
市の担当者が古墳について解説してくれました
で、話もどって、神奈川県伊勢原市の古墳です。「小田急まなたび」の企画ツアーは、立ち寄る場所でガイドさんや担当の方が、歴史や成り立ちについての話をいろいろお話してくださるんですよ。これがハマるとたまらないです(笑)。
伊勢原市には「大山詣り」の大山があります。関東以外の方には全くマイナーかと思うので、軽く解説しますと、この「大山」は古くから信仰を集めてきた霊山でして。江戸時代は、江戸からすぐ行けるパワースポットだっていうんで、当時の歌舞伎俳優(=すごい売れてる芸能人)が、カッコつけて参拝したりしてたわけです。すごい流行ってたんです。
脱線しましたが、そんなわけで大山は、関西でいうと「三輪山」のポジションだと思うんですよ。山の形がきれいで、山自体が信仰を集めている場所です。
なので、霊山のふもとである伊勢原市には、けっこう古墳がたくさんあると。そういう話なのです。
上記写真が、古くからあったという日々多神社があった高台からまちを見下ろした光景です。右側に何か建物がありますでしょ。これが恵泉女子短大の跡地で。この建物をつくる時に偶然、古墳が見つかったというわけなのです。それが埒免古墳です。
今回、企画ツアーで特別に中に入らせてもらい、古墳の石室跡を見させていただきました。
古墳は領地の境目につくるものだった!
この写真に写っている市の方の説明が面白すぎて、古墳自体の写真をほとんど撮り忘れてしまいました(笑)。
古墳は円墳で直径38メートルあるそうです。関東にしては大きい方、とのこと。しかし、お話の中で一番興味深かった点が、古墳をつくる場所です。
古墳は、領地の境目につくるものだったんだそうですよ。
担当の方曰く、隣りの領地の人たちに、自分たちの領地の人民の武力や財力を見せつけるために古墳をつくったということらしいんですよ。
なんでか。それは、隣りの領地との要らない戦争を避けるためですね。
「おれたちこんなにスゴイもの作れるんだから、こっちに攻めてくるなよ」というメッセージを伝えるために、墓をつくったってことです。
普通の人は「あーなるほどねー」で済む話かもしれませんが、わたしは占い師なので「まじでか!」てなりました。
現在とお墓の使い方がぜんぜん違うじゃん! と。
死者と生者を分けるために作られる墓と、死者の力を振るうために作られた古墳
お墓については、まだわたしは墓相の入り口しか分かっていないので、師匠の言葉をお借りしますとですね、「お墓の大事な機能のひとつには、生きている人と死んでいる人を分けること」ということなのだそうです。
死んだ人にはちゃんと死んでいることを分かってもらって(笑)、生きてる人には生きてることに集中できるように。死者と生者の人生を切り離すのが、お墓の大事な役割のひとつですよ、とそういうことなんですね。
これ具体的にどういうことを指して言ってるかというと、例えば人だったら誰でも、癌とか苦しい病気で死にたくないですよね。自分がそうした苦しい病気になったとして、これが子々孫々にずっと受け継がれたら大変です。子孫に受け継がせたくないものもあるわけですよ。それを分離するのがお墓の機能ということです。
ちょっと雑で大味な説明ですけども、そういうことなんですよね。死者と生者を分ける機能。
でも、ですよ。古墳は、ですよ。
領地の境界線につくって、威力を及ぼすわけでしょ。ぜんぜん死者と生者を分けてないですよね。
死者の力をガンガン借りようとしてますよね。
現代と真逆ですよね。
めちゃくちゃ面白くないですか(笑)
考えてみれば、時代によって、呪術の対象や内容が変わって当然ですよ。
古墳時代はそもそも生き残るのが大変な時代です。だから、たぶん死んだ先祖の力も借りて、死んでる人生きてる人両方で総力戦してたんじゃないですかね。
現代は古墳時代と比較すれば、生き残ること自体は楽にできます。だから死んだ人の力を借りる必要は少ないから、古墳を作らなくてもいいと。そういうわけなんじゃないかな、と(笑)。
むしろ死んだ人から影響を受けると(良いことも悪いこともあるけど)悪い影響の方が大きいから、現代では小さなお墓を作っているのかな、と言えるかもしれませんね。
現代でも、一族郎党死ねばもろともと、呪力戦やるのであれば、古墳をつくるのも有りかもしれません…。誰もそんな人いないと思いますけど(笑)。
ほか埒免古墳のこと(おまけ)
わたしが今回の記事で言いたいことは以上なんですが、神社に博物館に収められている副葬品をみましたが、見事な剣などありましたね。そういう見事な剣を実戦で使わずに墓に埋めてるわけですから、それぐらいの財力があったってことなんですよね。
なぜこの地が古墳時代に栄えていたかというと、副葬品から、どうやら馬を生産していたらしいことが分かったのだとか。良い馬を育てて、交易して、耳環などの高価なアクセサリーや先ほどの剣などを手に入れ、威光を知らしめるために使っていたらしいのです。
はっきりしたことは分からないのですが、この古墳をつくった一族は相当な実力者だった模様です。
また、ヤマトタケルが火攻めに会う話も、駿河説とこの相模説があり。相模説が正しいのであれば、ヤマトタケルを火攻めにした相手なのではないかという話もあるとか。ロマンですね(笑)。
そんなわけで、古墳、けっこう楽しいです。
みなさんもご近所の古墳(たぶんあります)を、ちょっと訪ねてみてはいかがでしょうか?