「ぼくたちの洗脳社会」という、岡田斗司夫さんの本を読んだんですよ。この本、1995年のものでして27年前の本なんですけども。インターネットがほとんど存在していない時に書かれているのに、内容に古さを感じなくてコワいんですよ。さらに、今でも通用する古くない話が展開されているのに、突然パソコン通信といったような古代の話題が出てきたりするのでそれもコワいんです(笑)。
今日はその中で、わたしが「これすごいパワー・ワードだな」と思った文章の話を紹介します。
今はインターネットがあるから当たり前に聞こえるけれど
ざっくり説明すると、本の中で、岡田さんは27年前に「あらゆる人々が自分の意思を表明し、相互に影響しあう世界がくる」と書いてまして、スゲェなと文句なしに思います。今読むとそれフツーだなと思える概念の話を、インターネットがない時代に書いているんですよ。強烈ですよね。
ちなみに余談ですが、この頃インターネットはないけど、パソコン通信はあったんですよ。
わたしは1995年は大学生で、生まれて初めてパソコンを買ったぐらいの時です。友達と一緒に秋葉原でパーツを買い集めて、その友達に組み立ててもらったんですよね。初めてのパソコン。
それでパソコン通信やりましたよ。当時はパソコン通信は男社会で且つオタクのものでしたので、女性はほとんどいませんので、みんな親切にいろいろ教えてくれました(笑)。わたし自身は非電源ゲームの趣味がありましたので、英語のルールブックを翻訳するのに苦戦した時に、助けてもらったりしました。質問書き込むと、会ったことない知らない誰かが、それはこれこれこういう意味じゃないか、とかお返事くれるんですよね。そういうの今なら普通ですけど、当時は異様に楽しかったですね。謎の高揚感がありましたね。
というわけで横道にそれたので、本の内容に戻ります。
近代的自我には無理があったという話
またざっくり説明すると、岡田さんは、農業革命や産業革命といったパラダイムシフトによって人間社会の価値観はどんどん変わってきてますよという話をしていて。
95年という時代の中で、特に強調しているのが、近代からの変化ですね。
近代は、神が”こう生きろ”と言ってくれなくなった世界であり、人間はみな平等で、自我をもって自分らしく生きなければならない、わけですよ。「あるべき自分の姿」を持たなくちゃいけないし、「わたしはこう生きよう」と決めなくちゃいけない。
けっこう真面目くさってしんどい考え方です。
でも、「人間みんな同じようなもんだし。自分はほかの人にとっても大勢のなかの一人に過ぎないよね」ってことに気付く人々が出てきました。「近代的な自我」を持つこと自体に無理があったよねという話です。(思えば、この周辺の話を、この頃に宮台真司さんが語ってましたよね。宮台さんはそれですごく人気が出た)
これを、もうちょっと今ドキの論調で語ると、
高度成長期に青年だった人たちは右肩上がりの時代に合わせて、人の言うこと聞いて「ナンチヤッテ自分」を持ってれば、なんとなく成功できたし幸せっぽくなれたんだけども、90年代ごろになると、そういうナンチャッテにみんな騙されなくなってくるよという話です。
だから、近代から離れた現代では、べきじゃなくて、別に強固な自分無くてもよくね? という考え方になってきて。いろいろな価値観をつまみぐいしていく個人の時代が来ていると、岡田さんは綴ります。
その一つ一つの価値観の中には「いわゆる」なものがあっても、だれか有名人の物まねがあってもいいのです。それよりも全体を自分の感性に合うように、その価値観の種類や深さや時間をコーディネートすること、いくつもの人格を持ち、自分なりに使いわけることが大切なわけです。
p209より
一本筋が通ってなくてもいいんです
となると、人間の行動力の源は「自分の気持ち」になります。
自分が好きか嫌いか、合うか合わないか、面白そうかそうでないか。そうした気持ちを持つことがものすごく重要になってくるわけです。
はい、ようやくわたしが一番ピンときた話に到達しました。
(中略)~自分の気持ち、つまりワガママが大切です。
自分の気持ちのはっきりしている人は、生き生きと暮らせます。いかにして、合法的に欲しいモノを手に入れるかと同様、いかにして社会の中で平和にワガママを通すかが勝負ともいえます。そのためには自分のワガママを通す代わりに他人のワガママを認める、という考え方が必要です。自分の財産の権利を認めてもらうには、他人の財産の権利を認めるという社会的システムが必要なのと同じことです。
p210より
そうなんですよ(!)
自分の好きとか嫌いとかを、しっかり出して生きていくことは「ワガママ」なんですよ。
誰もがもっている財産と同じもの、なんです。
「ワガママは良くない」ではないんですよ。
みんながみんなワガママを行使する権利があるんです。
けれども何もしなけりゃワガママのぶつかり合いになってしまいます。
だから、自分がワガママしたら、相手のワガママも聞いてあげる、というように、ワガママ間のバランスをとっていくのがよいのではないかと。それが現代人が、楽しく生きていくための心構えというか、コツというか、そういうものなんじゃないかという話を、岡田さんはしているのですね。
ちょっと目から鱗だったんですよね
ここから先は、わたしの意見です。
繰り返しになりますけど、ワガママは、悪いことではない、んですよね。
だってしょうがないじゃないすか、人間だもの。そりゃワガママですよ、人間だもの。
みんな違ってみんなワガママ、なんですよ。
人間が誰しも、違うワガママをもって生きているんですよ。
で、表題にした、パワーワードですけど
「自分のワガママを通す代わりに他人のワガママも認める」
ってやつですね。
いや、まさにこれだな、と思ったのです。
占い師として言わせてもらうと、このバランスがうまく取れてなくて、それで幸福感を得られてない人がすごく多いんじゃないかなって思ったんですよ。
自分のワガママを通し過ぎちゃう人や、他人のワガママを認め過ぎちゃう人がたくさんいるように思います。
たぶん、ワガママの判定ミスをしてるんじゃないかなと思います。自分の要求をワガママじゃないと思ったり、他人からの要求をワガママと認識しなかったり、ですね。
人間、汚れずにキレイに生きるなんて無理なんですから(笑)、
わたしもあなたも、自分も他人もワガママまみれかもしれませんよ。
まずはそれを認識するところから、視点を変えてみるのもいいかもしれません。
つまるところ、自分ってなんか他人とうまくいかないわ~って方は、自他のワガママ認知を高めてみたらいいんじゃないかと思いました。
認知度が高まれば「この要求は無いわ、拒否しよう」という判断も生まれるでしょうし「さすがに自分の意見通しすぎたかな~」という、自己を振り返った反省も生まれるんじゃないすかね。
そう。みんな違って、みんなワガママ、なんだと思いますよ。
現代人になっても、みんなけっこう泥臭いものです。
わたしはそう思います。