親ガチャと、外で食べる弁当がなぜか美味しい件について

わたしよく、昨夜の夕食の残りを弁当に詰めて、翌日の昼に会社で食べてるんすね。
そうするとふと「弁当にして食うと、このおかず美味いな」とか「昨日家で食べたとき美味しくなかったけど、こうして外で食べてみると美味いな」と思うことがけっこうあります。
みなさんもありませんか、どうでしょうか?

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「昨日家で食べたとき美味しくなかったけど、こうして外で食べてみると美味いな」 など

「ん……、たしかに弁当として、持ち出して外で食うおかずが美味いことあるかも」と、
みなさんも感じたことを前提にこの先の話を書きます(笑)。

いや、この弁当が美味いことと、親ガチャも一緒だな、と思ったんですよ。

なんだそりゃ!? と思った方、どうか落ち着いて聞いてください。

パッとしないおかずが、弁当にして外に持ち出すと美味く感じる。……これ何でだと思います?
わたしは、そのおかずの美味しさは「他に選択肢が無い」ことから生まれているのではないかと仮定しています。

選択肢がある時、ない時

家で食べる時は、他にも食べるものがあるし、調理しなおしたり新たな調味料で味付けする選択肢もあります。おかずの味は可変であり、なんなら違う食べ物に変更することすら可能です。

でも、外に持ち出すと、おかずの味は固定されます。
基本的には調理しなおしたりできないし、あるものを食うしかありません。
四の五の言わずに、それを食べるしかないのです。

だから、それをしっかり味わうようになる、というか。
そのおかずの良さに気が付くんですよね。
「おっ、意外にこれ美味いじゃん」ってなる。

選択肢がないと、そのものごとにしっかり向き合いやすい

今ここで味わうしかないから、そのおかずにしっかり向き合うから、
「美味いな」ってなるんじゃないかなと思ったんです。
(いやもちろん、向き合ったら不味いなと感じることもあると思いますし、向き合わずに避ける選択肢取る人もいらっしゃると思いますがw)

それで、親に感じる感情も一緒かな、とピンときたわけなのです。
親も選べないじゃないすか。
選択肢ないんですよね、子から見ると。
親ガチャって言うけれど、実際ガチャれてないと思うんですよ。
だって、子はそこにいて、親もそこにいるんだもの。

でも、それがいいというか。
あるものを食うしかない弁当と一緒というか。
すでにそこにあって、変えられないじゃないですか。

嫌だ嫌だ、というのもありなんですけども。
でも選択肢がないことが逆に、味わい深く付き合えることはあると思うし。
「あ、こういうところいいよね」ってなるんだと思うのです。

毒親で苦しんでいる方には、全否定されそうですが……

なんつうかですね、世の中の人「いいもの」「わるいもの」にとらわれすぎというか、
「いいもの100%」なんかないし「わるいもの100%」も存在しないでしょ。
「いい親」も「悪い親」もいないですよ。どっちかに寄ってるのは有ると思いますけど。
そんなに「いい」「わるい」で分けれるほど、世の中単純じゃないと思うんですよね。

悪いところが多いけど、その反面、いいところはこんな感じで、ステキだよね。
そんな風に解釈できればいいんじゃないでしょうか。

ああ、でも、いちおう補足すると、
「悪いもの」も我慢して食えって言ってるんじゃないですよ(笑)。
ぶ厚すぎる衣をちょっと外してみたら、中のお肉が意外に美味しかったとかあるじゃないですか。
うまいこと食べちゃえばいいんじゃないかと思うんですよ。

食べたフリとか、食べたつもり、とかでもいいじゃないすか

食べれないとか食べたフリしたら申し訳ないとか、拒否してるのは案外自分自身だったりするかもですよ。人間、自分に呪いをかけたりしなきゃ、けっこう自由に生きられると思うのです。

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親ガチャどうの言う前に、けっこう自分って自由なんだな、と。
そんな風に世の中の人に思ってもらいたい、占い師でした。